北区、赤羽地域にある古民家を知っていますか?
中に入ることができ、予約をすれば日本の農業体験をすることもできます。
今回は、住宅の中にある古民家、旧松澤家住宅と赤羽自然公園を紹介します。


旧松澤家住宅

東京都北区の文化財に指定されている古民家です。
旧松澤家は、昭和初期までは度々洪水に見舞われた地域であり、屋敷地には土盛りして周囲よりも1~2m程高くした水塚や、屋敷境の竹林などが残っていました。

主屋は田の字型に4つの部屋を配置し、部屋の間仕切り柱をずらした建築方式で、桁行9間、梁間6.5間の主体部分と、その西側に雁行して桁行・梁間共5間の角屋(馬屋)が 突き出す特徴的な形状をしています。

屋根には箱棟が取り付けられていて、おくざしきの付書院、どまに続くうまやを付属するなど、当時の格式ある民家としての風格が残されているのが伺えます。
建築年代は弘化元年(1844年)との口伝があり、その建築様式や部材の状態から江戸末期~明治初期にかけての建築と推察されます。

また、倉屋は主屋より古くに建てられたと伝わっています。
ここにある古民家は移築されたもので、移築の際に本復原工事が行われています。
建物の建築的特徴が整う幕末~明治初期の姿に復原するとともに、水塚や屋敷構えを含めた修景の復原も行われました。

江戸時代の北区

江戸時代の古民家が元々あった浮間の地は、武蔵国足立郡平柳領浮間村と呼ばれていました。
浮間村は、一貫して江戸幕府の直轄地でした。この村の歴史を知る手がかりは、黒田家文書に書かれています。

黒田家文書には、享和4年(1804)2月に作られた『明細書上之事』という古文書があり、これは、いわゆる村明細帳と呼ばれる類の村の公的文書で、幕府代官(竹垣三右衛門直温)に提出されたものの写しだろうと考えられています。ここには、約200年前の浮間の状況が詳しく書かれていました。
19世紀初頭頃の浮間村は、家数55軒(百姓52軒、地借1軒、寺1軒、修験1軒)から成り、そこに271人(男135人、女133人、出家1人、修験1人、道心1人)と馬5疋が暮らしていました。

百姓の多くは、畑で五穀や芥子を栽培したり、縄や筵、木綿糸を作るなどして生計を立てていたと記載されています。
こうした浮間村の主産業は、一体どのようなものだったのでしょうか。資料を見てみると、内訳として萱畑が56町8反8畝9歩(約78.2)%を占めるとあります。
浮間村の反高の大部分は萱野だったわけです。いまここで、萱とはチガヤやススキといった多年草の総称で、その群落が萱野です。

萱は、かつては屋根葺きの材料として需要が高く、ことに火災が多発した江戸では商品価値が高かったといわれています。
浮間村は、荒川に直接する村として頻繁に洪水の被害に見舞われましたが、その一方で屈曲・蛇行を繰り返す荒川の堤外地に発達した寄洲や中洲のおかげで萱に恵まれたのです。浮間村に暮らした人びとは、萱を刈り取っては荒川の水運を利用して江戸まで運び、そこで利潤を得ていたのです。

なお、明治14年(1881)に作られた「萱相場記」という史料によれば、金1円につき萱40束・蓑萱35束ほどの相場だったようです。
この松澤家住宅は、かつてはこうした暮らしのある場所に建てられていました。
このようにしてみると、屋根などが特徴的で、かつての暮らしがどのようなものだったか想像できます。

農業体験

この場所のもう一つの魅力は、当時の暮らしを疑似体験できるイベントが用意されていることです。
開催日はホームページを確認しする必要がありますが、予約の必要はなく開催日に訪問すれば、イベントに参加することができます。

伝統的な玩具である風車や竹とんぼを作ることができ、時期によっては、古民家の竈を使用しておにぎりを作る体験も可能なようです。
鬼滅の刃などでも描かれているシーンを体験できるのは貴重ですね。